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概要:皇后となられた雅子さまへの愛を貫く天皇陛下。その愛こそが新たな皇室をつくるのではないだろうか。
『水運史から世界の水へ』という本が出版されたのは、2019年4月。著書は徳仁親王。新しい天皇陛下が皇太子時代になさった「水問題」についての講演をまとめたものだ。
陛下は学習院大学の卒論に「瀬戸内海の水運史」を取り上げて以来、この問題を研究されてきた。皇太子時代に新たな公務の方向性を尋ねられるたび、「自分自身も携わってきた水の問題」と必ずあげてもいる。そんな陛下のライフワークへの情熱があふれる本だ。
だがこの本、あふれているものがもう一つある。皇后雅子さまへの愛、だ。
東日本大震災のくだりに7回
新しい令和という時代。天皇陛下はどのような皇室像をつくられるのだろうか。
Gettyimages
「はじめに」の最後、刊行に際しての謝辞として天皇皇后両陛下を筆頭に、12人の名前をあげられている。締めくくりはこうだ。
「そして、私の水に対する関心に、いつも理解と協力をしてくれている妻の雅子にも感謝の気持ちを伝えたいと思います」
第7章「水災害とその歴史」は学習院女子大学での陛下の講義(2012年1月28日)を収録したものだが、「雅子とともに」という言葉が5回、登場する。明らかに雅子さまとお二人とわかる文脈での「私たち」が2回。計7回。主に東日本大震災とその被害について述べた部分で、講義後に加えた「補足」も含め、「私たち(二人で)」「雅子とともに」現地に行き、被災地に心を寄せ続けている。そう述べている。
一貫している「雅子は」という姿勢
上皇さまと美智子さまは、お二人で平成流を築かれてきた。
Getty Images AsiaPac
令和という時代が始まり、新たな皇室像はどうなるのかという議論がさまざまにされている。平成が終わる2019年1月に『美智子さまという奇跡』を上梓した者として感じるのは、「雅子とともに」にこそ令和流があるのではないかということだ。
上皇さまと美智子さまは、お二人で平成流を築かれてきた。被災地で膝を折って被災者を励まされ、国内外の戦争の跡地で深く頭を下げられた。美智子さまは常に陛下より、少し後ろを歩かれた。
昭和一桁生まれ同士のお二人には、それはごく自然なことだったろう。上皇さまは皇太子時代、記者会見を開くことがたくさんあったが、美智子さまのことを「美智子は」と呼ぶことは決してなかった。美智子さまは「殿下が」「東宮様は」とお相手を呼ぶが、「妃は」「美智子は」という言い方を聞くことはなかった。天皇に即位してからの上皇さまは、もっぱら「皇后は」という言い方をされている。
現在の陛下は本の中だけでなく、皇太子時代の記者会見でも一貫して「雅子は」と述べられている。1960年代生まれのお二人にとっては、そちらが自然だったということだろう。
貫き通した結婚への意思
雅子さまとのご結婚への意思は揺らぐことがなかった。
Getty Images Entertainment
令和の始まった5月1日午前、NHKは一連の即位の儀を中継するニュースを4時間近くにわたり放送した。即位される陛下のご友人として、幼稚園から中学まで学習院で一緒に学ばれたという立花眞さんが出演していた。
立花さんは陛下のことを、小さい頃から思いやりがあり優しい方だと繰り返していた。やんちゃなことも一緒にした幼少期から、陛下が変わられたのは中学1、2年の頃だったと振り返った。
「◯◯だ」と言い切っていたお言葉遣いが、「そうであるといいですね」とご希望を述べるようになったと例をあげていた。司会の武田真一アナウンサーが「意思を少しずつ和らげるようになったのですね」と、まとめていた。
自分の立場を理解するにつれ意思を和らげるようになった陛下が、決して和らげなかったのが、雅子さまとのご結婚への意思だった。断られても、母方の祖父がチッソの経営に関わっていたことが問題になっても、「雅子さんではダメですか」と関係者に伝え続けた。
陛下と雅子さまのことをかつて「誤解を怖れずに云えば、似た者夫婦なのだと思う」と書いたのは、評論家の福田和也さんだ(『美智子皇后と雅子妃』)。小さな頃から「孤独」を引き受け、親と周囲の期待に応えてきた、という点に注目しての記述だ。
陛下は天皇家の長男として、弟である秋篠宮さまとは違う育て方をされている。雅子さまも双子の妹を持つ姉として、小さい頃からお利口さんでいることを己に課してきた。
その二人が出会われ、結婚された。「雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」という決め台詞が、外務省のキャリア官僚だった雅子さまの心を動かした。
「キャリアを積んで社会に貢献しよう」
外交官として、雇用均等法世代の働く女性として。常に人の役に立ちたいという気持ちで働いてこられたという。
Getty Images News
NHKのニュースには、雅子さまの友人も出席していた。その1人、小学校から高校まで田園調布雙葉学園で一緒だった土川純代さんは、雅子さまが陛下との結婚に悩まれている頃の話をしていた。
当時土川さんは大手銀行の総合職として、社宅に住んでいた。そこは雅子さまの実家のすぐ近くで、「何も聞かないでね」と言って雅子さまが訪ねてくることが何度もあった。
その話をして土川さんは、こう語った。
「陛下のまっすぐなお気持ちにお応えになりたいということと、常に何か人の役に立ちたいお気持ちがずっとおありと思う。そちらがやはり決定的にあり、合わせて総合的に決断されたと思います」
雅子さまと土川さんは、雇用機会均等法第一世代だ。武田アナはそのことにも触れ、「女性がバリバリ働く時代の幕開けでしたね」と言った。「お互いにキャリアを積んで、社会に貢献しよう」。雅子さまとよくそう語り合ったと、土川さんは答えていた。
働く女性の成長を喜ぶ
陛下の「まっすぐなお気持ち」に応え、雅子さまは外務省から皇室に場を移し、社会貢献しようと考えた。雅子さまの同世代として言い換えるなら、皇太子さま(当時)からのお誘いを意気に感じた。そんな感じだと思う。
だが皇室では、「社会貢献」より「お世継ぎ」が期待され、雅子さまは適応障害という病を得てしまう。
病の話の前に、陛下の雅子さまへのお気持ちの話をもう少し続ける。
婚約が決まった皇室会議後の会見で皇太子さま(当時)は、初対面で雅子さまに「非常に強いというか、いい印象を受けた」と話された。「控えめだが思っていることをはっきり言う」「非常に聡明」「心が通じ合う」と感じたと明かされた。
それから5年後に再会し、外交官として仕事をしているせいか一回りも二回りも大きくなったようで「非常にうれしく思ったわけです」と続けられた。
働く女性が置かれた状況はなかなか変わらない。
Gettyimages/ Klaus Vedfelt
働く女性の成長を喜ぶ。26年前に陛下はそう語っている。その発言が今も貴重に感じられるのは、女性の置かれた状況が変わっていないからだと思う。だってまだ、日本には「女性活躍担当大臣」という役職があるのだ。片山さつきさんという参議院議員がそれを担っていて、現在彼女が唯一の女性閣僚だ。
働く女性の成長を喜ぶ男性がもっともっといれば、たぶんこういうことにはなっていない。
陛下は、キャリアを得た雅子さまを愛した。父である上皇さまが「民間出身」の美智子さまを選んだのと同じようにそれは、「日本一の旧家」に新しい風を入れることになった。新しい風を入れるために選んだのでなく、それは日本一の旧家を担う者としての本能のようなことかもしれない、などと思う。
波紋を呼んだ「人格否定発言」
以来陛下は、雅子さまへの愛を表現することをためらわない。「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」というのは、2004年5月、ヨーロッパ訪問を前にした会見での発言だった。
その2カ月後、雅子さまの病名が「適応障害」と発表された。妻が病を得るまで追い込まれている。そのことを、与えられた場で訴える。妻を守るための作戦だったと思う。
この発言は世の中に衝撃を与え、「人格否定発言」などと称されるようになる。天皇陛下(当時)から「もっと国民に説明を」という発言が飛び出すなど、その波紋は大きかった。
雅子さまへの批判も高まった。私的活動はできるのに、なぜ公務はできないのか。園遊会も欠席し、宮中祭祀もしていないではないか、と。
雅子さまにとどまらず、ご一家にも批判が及んだ。例えば参内が少ないという批判。両親の家に行くだけのことだ、雅子さまがつらいならお一人で行ったらいいのに。そう思った人も多かったはずだ。
「時には両親を敵に回してまでも」
この点についてスッキリ解説してくれたのが、精神科医の斎藤環さんだ。
皇室の中で孤立無援感の強い雅子さまにとって、皇太子さまだけが自分の味方ということが心の支えになっている。だから皇太子さま一人が頻繁に皇居に行けば、孤立感が強まる。ゆえに皇太子さまが参内を控えるのも、治療の観点からは妥当だ。
『皇太子と雅子妃の運命』でそのような趣旨の斎藤さんの文章に触れ、目から鱗が落ちたことを覚えている。
最近、斎藤さんと対談をする機会を得た。その席で斎藤さんはこう語っていた。
「病の妻と両親、どちらにもいい顔をしていては、妻の信頼は得られません。全力でお守りすると言った以上、時には両親も敵にするような行動は必然かなと思いました」(【改元特集】どうぞ雅子さまにとっての「生きやすい」皇室を〔再掲〕)
プロポーズの時の言葉を、結婚してからもずっと守り続ける。そんな良い夫が、一体どれほどいるだろう。陛下は、そういう方なのだ。
ためらわずにラブ中心で
だからこそ、「妻への愛」を貫く陛下の夫婦の在りようから「令和流」を作っていただきたいと思うのだ。家族の愛。自己愛。愛は当たり前にあるものではない。そう感じさせられる出来事が、次々と怒る昨今だ。お二人の互いへの「愛」が感じられる場面が増えれば増えるほど、国民の共感も広がっていくはずだ。
ためらわず、ラブ中心でいっていただきたい。
などと思う私に気がかりなのが、陛下と雅子さまの好きな「研鑽」という言葉だ。
お二人を象徴する言葉「研鑽」。陛下はこの言葉にどのような想いを込められているのだろう。
Tomohiro Ohsumi
陛下は即位後朝見の儀で、
「皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに」
というところから、象徴としての決意を述べられた。
その2カ月余り前、59歳のお誕生日にあたっての記者会見でも「研鑽」という言葉を2回使われた。「引き続き自己研鑽に努めながら」象徴としての務めを果たしたい、さらに天皇皇后両陛下(当時)の「お姿をしっかりと心に刻み、自己の研鑽に励みつつ」務めに取り組みたい、と。
この会見の2カ月余り前、雅子さまの55歳のお誕生日は会見でなく、「ご感想」を文書で発表された。「この先の日々に思いを馳せますと」という文章が、やはり「研鑽を積みながら努めてまいりたいと思っております」と結ばれている。
お二人の真面目さがひしひしと伝わってくる。もちろん「研鑽」が大切なことは百も承知だ。が、その真面目さの余り、上皇ご夫妻をお手本に研鑽されることを優先し、「愛」をためらわれることがあるとすれば、もったいない。そう思い、気がかりなのだ。
お二人にはぜひ、ご結婚以来の「雅子とともに」のスタイルで令和の時代を歩んでいただきたい。同じ60年代生まれの一人として、そう願っている。
矢部万紀子(やべ・まきこ):1961年生まれ。コラムニスト。1983年朝日新聞社に入社、「AERA」や経済部、「週刊朝日」などに所属。「週刊朝日」で担当した松本人志著『遺書』『松本』がミリオンセラーに。「AERA」編集長代理、書籍編集部長を務めた後、2011年退社。シニア女性誌「いきいき(現「ハルメク」)」編集長に。2017年に退社し、フリーに。著書に『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』。最新刊に『美智子さまという奇跡』。
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